誤った先祖供養

 

 正しく先祖供養のできている人は、一体どれほどいるだろうか?

 先祖供養を謳(うた)い文句に掲(かか)げる霊友会も同じ類(たぐ)い

   

❷ 沿革

 

 霊友会は、久保角太郎(かくたろう)(1892~1944)が創立した、法華経を拠(よ)り所とする在家教団である。

 角太郎は、早くに両親を失い、久保家の養子となったが、養母に下男のように仕(つか)える日々であった。

 そんな時、自身を不軽菩薩と呼ぶ仏教思想家・西田無学の「仏所護念(ぶつしょごねん)」の教えに出合い、それに傾倒(けいとう)して、やがて自ら主宰して教団を発足した。

   

❸ 過剰な先祖の持ち上げ

 

 その教義は、専(もっぱ)ら先祖供養にある。礼拝の対象も「仏所護念の本尊」と称する各自の“祖霊”である。

 「仏所護念」とは、先の西田無学が提唱したもので、法華経『見宝塔品第十一』の、 「平等大慧(びょうどうだいえ)。教菩薩法(きょうぼさつぽう)。仏所護念」 (法華経 336ページ)

の経文による。この「仏所」の語を、故人の居場所と捉(とら)え、そこを護り念ずることによって一切の万霊を供養できるとしたのである。

 その独自の解釈により、角太郎は「総戒名」という先祖全体の戒名を会員の各家に与え、それを本尊として祀(まつ)らせた。

 彼が提唱した修行も、一貫した先祖供養に尽き、朝夕のお勤めに法華経を読誦し、総戒名と共に、その日が命日の先祖を供養するというもの。先祖を敬う心は、己(おの)れ自身を磨き、成仏した先祖の加護と相まって、安泰となると説く。

 祖霊に願えば何でも叶う、すべては先祖頼みという単純な教義には、ただただ驚かされるばかり。

 先祖に、これだけの重荷を背負わせていいの?

   

❹先祖を本尊とする愚かさ

 

 そもそも、なぜ本尊を崇(あが)めるのか。それは対境たる本尊と、自分の智慧とが境智冥合(きょうちみょうごう)することにより、本尊に具(そな)わる功徳力が顕われるからである。

 しかし、角太郎が提唱する本尊は、各々の先祖であるから、とどのつまり、凡夫であることに変わりはない。たとえ死後であっても、苦楽を感受し続けているのである。

 そんな先祖に、どうして民衆救済の功徳力が具わるというのであろう?

 むしろ、間違った先祖供養による悪縁に触れ、先祖の苦しみは増すばかり。ほとほと迷惑な話だ。

 元来、法華経には、先祖を本尊とするなど、どこにも説かれていない。

 現に、霊友会が依拠(いきょ)する「仏所護念」の経文には、

「妙法華経 為大衆説(いだいしゅせつ)」(同)

と続けて説かれ、

仏は「妙法華経をもって、大衆のために説きたもう」とある。これのどこに、先祖崇拝、先祖頼みの意義があろうか。

 霊友会の教義の根幹が、そもそも仏法の本義に反した独断による大間違いであるから、そんな教えで正しい先祖供養など、できるわけがないのである。

   

❺正しい先祖供養

 

 「追善回向(ついぜんえこう)」とは、それを願い出る者自身が、正しい仏道修行によって功徳を積み、その功徳を故人に回(めぐ)らし向かわしめることによって叶う。したがって、仏道修行そのものに、多大な功徳が具わることが最も重要であり、その中心が本尊にあることは当然である。

 故に、日蓮大聖人は『本尊問答抄』に、

「本尊とは勝(すぐ)れたるを用ふべし」(御書 1275ページ)

と仰せになっている。

 すべての信心修行の根幹が本尊に収まるのであるから、須(すべから)く本尊を選ばねばならないところ、大聖人は、

「問うて云はく、末代悪世(あくせ)の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」(同1274ページ) と御教示である。

 この「題目」とは下種の法体にして、今、眼前に大御本尊と在(ましま)す。この本門戒壇の大御本尊を離れては、先祖供養はおろか、自身の成仏も程遠いのである。

 

(大白法 第941号 平成28年9月16日)