法華誹謗の邪教団
❶施設の閉鎖
平成25年11月、「吹奏楽の甲子園」とも呼ばれた普門館大ホールが閉鎖された。立正佼成会の施設である。
区の条例等により、教団は、新たな施設の建設や現建物の改修を断念。これにより、普門館における吹奏楽の歴史は幕を閉じた。
邪宗の施設が使用されなくなったことは結構だが、立正佼成会は、創価学会、幸福の科学に次ぐ信者数を有する謗法団体、捨ててはおけない。
❷法華経に背く罪深し
立正佼成会は、法華三部経を所依(しょえ)の経典と標榜(ひょうぼう)するが、その実態は、すべて法華経に違背した邪義邪説である。
教団では、法華経のどこにも説かれていない「久遠実成(じつじょう)大恩教主釈迦牟尼世尊」なる仏像を本尊とし、爾前権教の方便である四諦・八正道・十二因縁などを教義に据(す)え、釈尊が、
「正直捨方便」(法華経 124ページ)
と述べて、捨てよと命じた諸経を用(もち)いている。
佼成会の開祖である庭野日敬(にっきょう)は、その根拠として、
「方便は偉大な力を持つ」(庭野日敬自伝 333ページ)
と強弁(きょうべん)し、挙(あ)げ句には、
「信仰状態は親鸞(しんらん)、教義は日蓮、所作は道元」(同 283ページ)
等と支離滅裂に説く。
もはや、信仰の中身に、何ら辻褄(つじつま)が合っていないことを自白しているのだ。
教団の教えは全く法華に非(あら)ず、方便どころか、
「四十余年。未顕真実」(法華経 23ページ)
の金言に背(そむ)く大罪である。
法華経の真意も知らずして、法華経を依経(えきょう)とする厚顔無恥は、伝教大師が、 「法華経を賛(さん)すと雖(いえど)も還って法華の心を死(ころ)す」 (伝教大師全集 3-252ページ)
と呵責(かしゃく)された、法華誹謗の逆徒そのものである。
❸曲学阿世(きょくがくあせい)の徒
教団に入会すると、「それまでの宗教を捨てる必要はない、自分の檀家寺や氏神を大切にするように……」と教えられる。
これについても、庭野は、
「日蓮聖人は(中略)宗派意識というものを一応ご破算にして、お釈迦さまのご真意を行ずることが真の仏教者であると叫ばれたものと、私どもは解釈いたしておる」 (自伝 283ページ)
との持論を展開する。
日蓮大聖人が四箇(しか)の格言をもって他宗を破折し、『立正安国論』をもって国主を諌暁(かんぎょう)された御振る舞いを、全く理解していないのだ。
教団名に「立正」の字を冠(かん)するくせに、立正安国の原理も判らないとは……。その無知ぶりに、
悩乱極まれりとの感を懐(いだ)く。
❹法華折伏 破権門理 (はごんもんり)
庭野を開祖と仰ぐ佼成会よ、刮目(かつもく)して拝せ。
法華経には、
「不受(ふじゅ) 余経一偈(よきょういちげ)」(法華経 183ページ)
と説かれ、釈尊自身が法華経以外の信仰を否定されているではないか。
そもそも、天台大師が、
「法華は折伏して権門(ごんもん)の理を破(は)す」 (法華玄義釈籤会本 下―502ページ)
と示されるように、折伏こそ法華経の精神であり、他宗の権門を破してこその法華一実である。
「宗派的な意識は超越すべき」(自伝 284ページ)
と、佼成会は「万教同根」を謳(うた)うが、ならば、教団の存在意義はどこにあるのか。宗派意識の超越を説くならば、当の佼成会自体が、まずは教団を解散すべきであろう。
お抱(かか)えの出版社や学校、病院を擁(よう)して、宗教法人ではなく、慈善団体として専念すればよいのだ。
❺邪教から救済しよう
佼成会の教えの中に、法華経の真意など微塵(みじん)もなく、あるのは、ただ庭野の己義(こぎ)のみである。つまりは、庭野の邪説に過ぎない。
邪宗教が、教義を他から盗んでくるのは常ではあるが、佼成会もご多分に漏れない代物(しろもの)、看板を盗んだだけで中身は空っぽなのだ。
こんな教団、こんな独りよがりの信仰で、幸福になど、なれようはずもない。
我々は、法華経の真意も、大聖人の仏法も知らない無知な会員たちに、日蓮正宗の正法正義を教えていこうではないか。
(大白法 第927号 平成28年2月16日)