❶浄土はどこに?
法華経と阿弥陀経は、どちらも中国の鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳出(やくしゅつ)した経典で、この二つに描かれる“浄土”の様相は、一見よく似ている。
阿弥陀経では、
「かの仏の国土には常に天楽(てんがく)を作(な)す。黄金(おうごん)を地とせり。昼夜六時に曼陀羅華(まんだらけ)を雨(ふ)らす。其の国の衆生(中略)諸の妙華を盛りて、他方十万億の仏を供養す」(国訳一切経)
とあり、法華経には、
「我が此の土は安穏(あんのん)にして 天人(てんにん)常に充満せり 園林(おんりん)諸の堂閣 種種の宝をもって荘厳(しょうごん)し(中略)諸天(しょてん)天の鼓(つづみ)を撃(う)って 常に衆(もろもろ)の伎楽(ぎがく)を作し 曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆(だいしゅ)に散ず」(法華経 441ページ)
と、どちらの国土も幸福に満ちた世界が描かれている。ただ、この二つの浄土には、大きな違いがある。
一つは、それが「此土(しど)・この娑婆(しゃば)国土」か「他土(たど)・(よその場所)」かで、もう一つは、「真実」か「方便」か、ということだ。
❷“此土”がダメならどうする?
阿弥陀経に説かれる浄土は、「西方(さいほう)十万億土」という、遥(はる)か西の彼方(かなた)にある阿弥陀仏の国土のこと、というのはよく知られているところであろう。
彼(か)の地にある「極楽浄土はすばらしい」ということは、その前提として我ら凡夫が住んでいる此(こ)の地、つまり娑婆世界が、苦悩が多くて穢(けが)れた、たいへん住みにくい世界であると言っていることになる。
この娑婆世界を忌(い)み嫌って、西方の極楽浄土に憧れを懐(いだ)かせるというのが浄土経典の内容である。
しかし、本当にそれが一切衆生救済を願われる仏の本懐(ほんがい)なのだろうか。
❸西方浄土は方便の穢土(えど)
法華経の開経である無量義経には、
「諸の衆生の(中略)性欲不同(しょうよくふどう)なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕(あらわ)さず」(同 23ページ)
と、法華経以前の四十二年間の説法は方便教であり、真実を説いたものではないと示されている。
つまり、遥か彼方にあるとされる極楽浄土も、仏が故(ゆえ)あって方便のため、仮に説いた国土でしかない。
仏の真実の教えである法華経では、娑婆世界こそが、実は安穏で清らかな“仏国土”であると開顕された。
これを娑婆即寂光(娑婆世界が本仏常住の常寂光の浄土)と言い、爾前(にぜん)方便の諸経で説く西方浄土は、実際にはどこにも存在しない架空の国土なのだ。
❹阿弥陀は助けてくれない
もしあなたが、人生に絶望したとして、「さあさあ、この世は苦しく悩みの多い世界だから、もう諦(あきら)めましょうよ。それよりも、南無阿弥陀仏と唱えて、死んだ後に極楽浄土に生まれ変わりましょう」と唆(そそのか)されたらどうだろう。
実際に中世の中国や日本では、“捨身往生”と称して自ら命を絶つ熱心な念仏者が後を絶たなかったという。果たしてそれで、本人やその家族は本当に満足しただろうか?
冗談ではない。今を一生懸命に生きている人々を救えなくて何が宗教か!
現世に生きる意味を否定し、現実逃避と諦めの命を助長する念仏は、人生の意味を損なわせる邪義以外の何物でもない。
❺どうすれば浄土になるのか
法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の御本尊に、至心に御題目を唱えるならば、我ら凡夫の命はそのまま清らかな仏の命となり、その人の仕事や家庭などの“環境”もまた、すばらしい仏国土となる。
これまで悩んでいた同じ人が、妙法を受持することによって、人間関係などの悩みも不思議と解決し、環境が変化したりして、幸せに人生を歩めるようになるのだ。
なお、亡くなった後も心配はご無用。法華経に、
「現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け、亦(また)法を聞くことを得(う)」 (同 217ページ)
とあるように、妙法受持の安穏なる幸福境界は、現当二世に亘(わた)って続きゆくことを約束されている。
この妙法の偉大な功徳、人生の苦難を真に解決する道と謗法の恐ろしさを、訴えていこうではないか。
(大白法 第1003号 平成31年4月16日)