九州開導の師 妙寿日成貴尼伝

     

(1)「異流義より帰伏」

 


 妙寿日成貴尼は、もともと異流義の臨導日報の弟子で、佐野好堅といいました。

 明治5年8月1日より、師匠の臨導は大病に罹りました。その有様は尋常ではなく、もがき苦しむその姿はまさに地獄に苦しむ衆生そのもの。この様子を見て、好堅は、師匠の信仰に疑問を持ちました。それは「師匠である臨導の教えが正しいのなら、こんな罰の現証が出るはずはない。臨導の病気は、大石寺に敵対してきた謗法による現罰ではないのか」というものでした。

 そう考えてみると、大石寺こそが大聖人の教えを正しく護り伝えていることに気づき、臨終間際の臨導にそのことを告げました。するとどうでしょう、臨導の顔からたちどころに苦悩の相が消え、さも嬉しげに合掌しているではありませんか。ほどなくして臨導は安らかな相を現じ眠るように亡くなりました。これを目の当たりにした好堅は、「大石寺こそ正法を伝える宗派である」と、強い確信を持ちました。

 こうなると、居ても立ってもおれません。一刻も早く大石寺信仰に帰依したい。そして今までの大石寺誹謗で積んできてしまった謗法罪障を消滅したいと考え、つてをたどってまずは京都九条住本寺の大講頭・加藤廉三の教示を仰ぎました。やがて好堅は、日霑上人の弟子となることができ、「妙寿日成」という名を賜ったのでした。

   

(2)「九州開教」

 

 妙寿尼は総本山での修行の後、懺悔滅罪のため、臨導に縁があった異流義の一掃と、九州開教の大願を立て、折伏弘通の旅に出ました。

 出家する以前の妙寿尼は、長い道中も何の苦労もせずに、駕籠に乗ることのできる身分の高い女性でした。しかし今回は自分の足を頼りに歩くしかなく、旅に不慣れな足はすぐに痛み、大変な苦労がありましたまた、その頃の九州・山口では士族の乱が起こっていて、不穏な情勢でした。さらに当時の九州には日蓮正宗の信仰をする人はわずかしかいませんでした。それでも妙寿尼はたったひとりで九州に向かいました。頼りになるのは、御本尊様と、日霑上人から賜った、久留米の今村武七宛ての添え状だけでした。

 九州に着いた妙寿尼は、早速、久留米を本拠地として筑後一円を中心に折伏逆化の毒鼓を撃ち鳴らし、頑迷な一人ひとりを諄々と説き伏せ、九州北部の異流義を一掃したのでした。そればかりか、他宗謗法の人々も数多く正法に導き入れたのでした。

 妙寿尼の大願であり、信徒一同の志願である根本道場の建立は、悪口擯出等の様々な難を受けながらも粘り強く進められました。そしてついに明治17年、久留米市京町に一宇が建立されたのでした。待望久しい九州における本宗寺院の出現であり、これが近世九州開教の道場・廣布山霑妙寺です。

 妙寿尼は御師範である日霑上人を開基と仰ぎ、自らを第2代とされました。霑妙寺の寺号は、日霑上人の御名前の「妙道院日霑」から名付けられたものでした。

   

(3)「本懐満足」

 


 妙寿尼は多くの弟子を養成され、その数は二十数名にも及びました。強固な信仰による教導であったことは、その中から59世日享上人、62世日恭上人のお二方が猊座に登られていることからも窺い知ることができます。

 妙寿尼は霑妙寺建立後も邪宗を猛破折され、その教化の因縁により現在の正妙寺、妙境寺、法霑寺、立正寺、法光寺、正霑寺等の十数カ寺が設立され、それらは有力な寺院として、折伏の中心的存在となって活動しています。

 その後、妙寿尼は余生を弟子の育成・教導に努められ、大正3年には旧本堂に倍する壮麗な本堂を建立されたのです。

 新本堂建立は妙寿尼の悲願でした。そこで妙寿尼は、「久留米の霑妙寺が九州最初の真の信仰の根本道場となるので、立派な本堂を建立して、多くの人に大法の縁を結ばしめんと思いて」と、前書きされたうえで次の和歌を詠まれました。

「のりのため 千尋の海のそこの岩 とふさで置ぬ あまの心を」

懺悔滅罪のため九州開教の大志を立て、死身弘法の信念の強さを発揮し、一生を捧げて成し終えた歓喜と安堵の心が推し量れます。

 また、信徒数は、単身九州に来られた時と比べると、およそ100倍にもなっていました。こうして、全ての大願を成就し終えた妙寿尼は、大正5年1月15日の朝、

「いざ今日は 暇をもらって故郷の 御親の元に帰るうれしさ」

との辞世の句を詠まれ、82歳を一期として安祥として帰寂せられたのでした。

 まさに、九州開導の師と称され、九州に日蓮正宗の正義を顕揚された御方でありました。