❶現代人の心の闇
「死にたい」「生きていることに疲れた」というような苦悩を抱く人々に対して、本宗僧俗はどのように対応すべきだろうか。我々がふだん、折伏を行ずる中で、たびたび、このような悩みを持つ人に遭遇する。
今、日本では、一年間に約2万人もの人が“自殺”で命を絶っている。自殺予備軍は、この十倍、百倍と考えるのが妥当だろう。
❷念仏の教え
浄土宗や浄土真宗では、このような悩みにどう答えるだろうか。これらの宗派で「南無阿弥陀仏」と唱えるのは、次のような教えによる。
“我々が現在住んでいるこの世界は穢土(えど)・(穢(けが)れた世界)であり、悩みや苦しみが絶えない。しかし、この世界の西方には阿弥陀仏の領する極楽浄土(すばらしい世界)がある。死んだ後、阿弥陀仏の極楽浄土に往生(おうじょう)するために、今のうちに一生懸命、念仏を唱えましょう”。
これは言い換えれば「この人生では救われない」「今いるこの世界では救われない」ということだ。
このような思想は、人々の厭世(えんせい)観を助長するものであり、さらに遥(はる)か西方の浄土に恋(こ)い焦(こ)がれるあまり、今生きているこの世を疎(おろそ)かにする。
❸国による“自殺禁止令”
西暦701(大宝元)年、日本史上初めて制定された本格的な律令(りつりょう)として大宝(たいほう)律令があるが、この中の「僧尼令」では僧侶の捨身(しゃしん)往生、いわゆる“自殺”を禁じている(焚身捨身条)。つまり当時、浄土教の隆盛を背景に、現世を厭(いと)い、浄土に往生することを求めての自殺が、僧侶の間で流行していたということだ。
❹善導の「遺身」
浄土宗の元祖法然は、高祖善導の十徳の第七に「遺身入滅徳」を挙げて、善導が極楽浄土に往生するために、自ら命を絶ったことを賞讃している。
この部分は『続高僧伝』の記述を誤読したもので、実際に善導は自殺していないとの弁解が念仏関係の書物に散見されるが、浄土に強い憧憬(しょうけい)を抱いた人間が、自ら命を絶ったという事実は揺るがない。
さらにこの「遺身」は、釈尊の本生譚(ほんじょうたん)・(前世の物語)に説かれる菩薩行(布施波羅蜜)とも全く趣(おもむき)が異なる。
例えば釈尊の前世である魔訶薩埵(まかさつた)は、飢えて死にそうな虎の母子にその身を捧(ささ)げたのであるが、これは他人の苦しみを我が苦しみとし、ひたすら他人の利益を求めて行ずる“利他行”である。
娑婆世界にあって苦しむ人々を横目に、自分だけ浄土に往生しようという考えが、仏の本懐に適(かな)っていると言えるか。人間の根源的な苦しみ、生・老・病・死が、往生によって本当に解決できると思うのか。
❺法華経の教え
釈尊の本懐たる法華経の教えは、これと正反対だ。『寿量品』に、
「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(法華経 431ページ)
「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」(同 440ページ)
と説かれるごとく、我々が今住んでいるこの娑婆世界、すべての人々が住むこの世界こそが本来、仏国土なのである。別の場所に極楽浄土など、ありはしないのだ。そのことを知らず、自らの悪業によって「苦悩の充満する世界だ」と誤認し苦しんでいるのが、末法の荒凡夫なのである。
正直に方便たる念仏を捨てて、寿量品文底秘沈の大法たる本門の三大秘法を受持信行するならば、胸中に冥伏(みょうぶく)する仏の命が顕現し、生きる力が漲(みなぎ)り、本当に意義のある幸せな人生を歩むことができるのだ。
堅固な信心を持(たも)つ人の住する所は、もはや穢土ではない。「信心をすることで家庭や職場の環境がよくなった」という本宗信徒の体験談は、枚挙(まいきょ)にいとまがないが、これらは言い換えれば、仏国土の顕現である。
我々は、御法主日如上人猊下の御指南のまま、一切衆生救済の高い志(こころざし)を胸に、念仏をはじめとする諸宗の邪義を粉砕し、一人でも多くの人に、信心を根本として生きる幸せを伝えていこうではないか。
(大白法 第907号 平成27年4月16日)