【1】地獄で待つ親鸞(しんらん)から決別しよう

     

❶親鸞の邪義

 

 親鸞を宗祖とする浄土真宗は、西方浄土の阿弥陀如来が衆生を救済すると説く。その根拠として、無量寿経の第十八願「南無阿弥陀仏と称(とな)える者を西方浄土に往生させる。ただし、五逆罪を犯した者と、仏の正法を謗(そし)る者はその限りでない」との阿弥陀の本願を挙げる。

 親鸞はこれを拡大解釈して、阿弥陀の本願を信じた瞬間に往生が決定するとし、末法の悪業の凡夫が救われる唯一の方法は、ただ阿弥陀の本願を頼む他にないとの教義を立てた。

 さらに親鸞は「久遠実成 阿弥陀仏」などと、法華経寿量品で本地を開顕した久遠常住の本仏を差し置き、阿弥陀を三世諸仏の本師・本仏に仕立てた。  

 しかし、阿弥陀は「未顕真実」たる法華以前の仮の仏に過ぎず、しかも娑婆世界とは無縁の仏である。

 我らが生活する娑婆世界とは縁もゆかりもなく、言わば赤の他人である阿弥陀が、臨終に際して来迎(らいごう)するなど、あり得ない話だ。  

 そもそも、阿弥陀自身が第十八願に誹謗正法の者は救えないと述べているのだから、親鸞の教えでは、極楽往生どころか、無間地獄に堕ちることは疑いない。

     

❷身内も不審がる臨終の姿

 

 では、実際の親鸞の臨終はどうであったか。

 親鸞の末娘の覚信尼は、晩年の親鸞を世話し、その臨終に立ち会った。日頃から親鸞の教えに触れていた覚信尼にすれば、父の臨終には、さぞ尊い奇瑞(きずい)が起き、立派な往生になることだろうと期待していた。  

 しかし、現実はその理想を打ち砕くものであった。覚信尼は、母であり親鸞の妻でもある恵信尼に宛てた手紙の中で「あのような臨終の姿で、お父上様は本当に浄土に往生されたのでしょうか」と苦悩を打ち明けている。恵信尼はその返書に「殿(親鸞)の臨終がどのようであったにせよ、浄土に往生したことは間違いないと、堅く信じています」と、頼りない言葉で娘を励ましているほどだ。

 親鸞の最期は、病苦に苛(さいな)まれたのであろう、実の娘でさえ不審を抱く悲惨な有り様だったのである。

 だが、当の親鸞は、生前から不如意な臨終になることを予見していたのか、最晩年の書状には、

「善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず」(親鸞聖人御消息)

と記し、自分の臨終の相の善悪を問題にしてはならないと、無責任に放言する始末である。親鸞自身、師匠の法然に騙(だま)されて地獄に堕ちても後悔はないと豪語するほどだから、堕地獄は覚悟の上だったのだろう。

 何もこれは、親鸞一人に限ることではない。

 中国浄土宗の祖・善導は自殺を図ったが未遂に終わり、悶死(もんし)したと言われる。  

 また、日蓮大聖人が、

 「法然が一類の一向の念仏者法然・隆観・上光・善恵・南無・薩生(さつしょう)等(中略)或は悪瘡(あくそう)、或は血をはき、或は遍身にあつきあせをながし、総じて法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし」(御書 363ページ)

と仰せのように、当時の念仏の主導者たちは、一様に狂乱の中で悲惨な臨終を迎えており、これら凄まじき現罰の姿を、

「臨終の思ふやうにならざるは是(これ)大謗法の故なり」(同 329ページ) と喝破(かっぱ)されている。

     

❸即身成仏を約束する大聖人の仏法

 

大聖人は、

「先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(同 1482ページ)

と御教示である。臨終こそ仏道修行の集大成であり、いかなる臨終を迎えるかが何よりも大切なのだ。

 仏の経典に照らせば、臨終の姿にこそ、死後の生命の趣(おもむ)く先が現れると説かれる。正法を信じる者は必ず穏やかな成仏の相となり、謗法を犯せば厳しい臨終の相となる。

 この歴然たる仏法の道理を知らず、念仏の謗法によって堕地獄の業因を作り、先に地獄で待つ親鸞の後を追う真宗門徒こそ、まことに哀れである。

 真宗門徒諸氏よ、自身の臨終の姿で成仏の模範を示せない無責任な親鸞(浄土真宗)から一刻も早く決別し、即身成仏「決定(けつじょう)無有疑」と約束される大聖人の仏法に、一日も早く帰依すべきである。

(大白法 第901号 平成27年1月16日)

     

【2】伝統的な欺瞞(ぎまん)体質

     

❶悪人正機

 浄土真宗の開祖・親鸞は、 「善人でさえ極楽に往生するのだから、悪人が往生することは言うまでもない(趣意)」 (浄土真宗の常識 28ページ)

などと言う。

 悪人をも救済するのは大乗仏教の優れたる所以(ゆえん)であるが、善人よりも悪人のほうが往生しやすいとは、どのような理屈によるものだろうか。

 善因善果、悪因悪果とは仏教の大綱(たいこう)であり、これを無視した教えは、もはや仏教ではない。

 昨今の日本の諸相を見れば、親が子を殺し、子が親を殺すなど、思いもよらない悪が充満している。「悪いほうがいいんです」と嘯(うそぶ)く宗教に、世間を浄化する力がないことは明らかだ。

 

❷他力本願

 

 浄土真宗では「他力」(阿弥陀仏の力)の救済に頼り、「自力」を徹底的に否定する。

 では「自分」はどんな態度でもいいのか。

 この宗派独特の“ぐうたらぶり”がよく表れているのが、

「法蔵菩薩という菩薩が(中略)『頑張りなさい』『努力しなさい』『悔いなく生きなさい』などと、私に願いや理想を告げるのを止(や)めたというのです」 (同 36ページ)

という教えだ。

 努力することを評価しない宗教に未来はない。

 なにせ、寺院参詣する“努力”や、朝夕のお勤めをする“努力”は無用となる理屈だ。ならば、自宗を世の中に普及する“努力”もやめれば、いかがなものか。

     

❸西方極楽浄土

 あらゆる方角のうち、なぜ“西方”なのか。『なるほど浄土真宗』では、西を夕日の沈むところとして、

「言い表すことのできない感動的な光景(趣意)」(該書 14ページ)

だと賞賛している。

 たしかに感動的だが、例えば同じように“朝日”に感動する人もいるだろう。

 結局“西”に限定すべき根拠は、該書には見当たらない。

 西方極楽浄土を言うならば、東方浄瑠璃(じょうるり)世界など、十方(あらゆる方角)に無数の仏様がおられ、あらゆる浄土が存在する。“西”でなければならぬ理由を示してみよ。

     

❹往生と成仏

 

 往生というのは「ある場所に生まれ変わる」ことで、成仏とは「悟りを開く」ということだ。言うまでもなく仏様は、悟りを開いたことで仏となり、あらゆる苦悩から離れられたのだ。仏様が人々の苦悩を除くために示す道は、成仏への道に他ならない。

 対して、浄土真宗で言う「往生」とは、「苦しみに満ちたこの世を離れ、悪に満ちた我が身を離れて、とりあえず西方の極楽浄土に往生しましょう。しかる後に成仏をめざしましょう」というものだ。

 ならば問う。私たちが生きているこの世は荒(すさ)んだままでもいいのか。今生の我が身や家族は不幸のままでも仕方がないのか。なぜ西方の浄土に限定するのか。それほどまでにすばらしい西方浄土から、さらに成仏をめざす意味があるのか。直接「成仏」への道を示した釈尊の教えを黙殺するのはなぜか。すべての教えが矛盾(むじゅん)と欺瞞(ぎまん)に満ちている。

 人生の苦境に立たされた時、本当にその人を救ってくれるのは、どのような教えだろうか。心身共に疲弊(ひへい)しきった人に「来世は極楽に往生しましょう」と言ったらどうだろう。実際、中世においては「捨身(しゃしん)往生」という自殺行為が流行していたという。言うまでもないが、現実逃避からは本当の幸せは生まれない。

 法華経の教えは、これとは正反対だ。仏様は我々一人ひとりの境界を、けっして否定したりはしない。

「我此土安穏 天人常充満」(法華経 441ページ)

総本山大石寺の風景

と説かれるように、我々の住むこの娑婆世界(しゃばせかい)・(穢土)は、もとより仏様の領する浄土なのだ。我々個人もまたしかり、我々の命には仏様の命が具(そな)わっており、南無妙法蓮華経の御本尊に帰依(きえ)することで、その命を開くことができるのだ。ただ、我々の内にある「煩悩(ぼんのう)」が、その真実相を覆(おお)い隠しているに過ぎない。

 我々は、御法主日如上人猊下の御指南のまま、念仏の誑惑(おうわく)を粉砕し、立正安国の実現に向かって、堂々と前進しようではないか。

(大白法 第933号 平成28年5月16日)